物語のサイズ感からみるフィクションとリアル
Posted by admin on 2019年4月20日物語のサイズ感のトリックについて、改めて考えてみると面白い発見がたくさんあります。海も太陽も、紙一枚の上に描かれ、多くの人たちの生き様すら鞄にすっぽり入る、本という、サイズ感に編纂されているのです。私は今自分目線の等身大の現実を、誰かが仕掛けたものではない絶対無垢なノンフィクションとして捉えています。しかしもしかすると、これは私の知らない作者によって作られた演出の一部であり、私も単なる登場人物の内の一人(あるいはモブの内の一人かもしれませんが)に過ぎないという可能性だってある訳です。
とある芸術家が、誰しもが知っている有名な漫画を等身大に拡大し展示するちいう試みをした際の事を語っている記事を読みました。それによると、鑑賞者はいつも紙の上で動き回っているキャラクターたちが、自分たちと同じくらいまたはそれ以上の大きさになっている事に、驚き笑いときに恐怖の色を浮かべる人もいたそうです。さらに注目すべきは拝啓や吹き出しの大きさです。それらは通常キャラクターよりも大きく描かれている事が多く、等身大に拡大すると特にそれらの大きさに驚かされる人が多いようです。ここでこの芸術家が鑑賞法についての面白い発見について“自分よりも大きいものを全体像として捉えるため、人々は後ろに下がったり横に移動して、何とか見ようと工夫するんです。この無意識の運動は通常サイズの漫画を読んでいるだけでは成せない。自然と心身を使って鑑賞しているんです”と語っています。
このように等身大サイズに拡大する事によって身体全体が反応し、鑑賞に対しての革命が起きるのです。普段は視覚から得る情報だけに頼って読書をしていますが、身体を動かし能動的に読書をする事によって物語の世界を一層リアルに感じる事ができます。フィクションをあえてリアルな形に立ち上げ直す事によって新しい観賞論が生れる訳です。
たしかに私たちは本の中で太陽が爆発しようが起きようが人が死のうがそれは二次元上で起こった事象であり、心に訴えかけられ自身の中の何かが変わる事はもちろんありますが、では私たちを照らす太陽がこの本をきっかけに爆発するのかとと言ったら、しないんですよね。しない事が分かっているからこそ安心して爆発した太陽の欠片を閉じて鞄にしまい家に持ち帰って、愛する人を失った物語の隣に収納して「今夜の夜ご飯は何にしようか」と料理本を取り出し日常に戻る。いくつもの壮絶なフィクション物語が立ち並ぶ本棚、それを横目に淡々と日常を送るなんてそれ自体が奇妙で、やはり誰かが仕組んだ物語のように感じられます。